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春野ゆく雲のはやさや少女老ゆ 西山 逢美
「春野」と言えば、まず明るく、広々とした景が立ち上がり、春の野を渡る風、光、草の匂いまで感じられる。そこへ「雲のはやさや」と置かれることで、視線は地上から空へ移る。春の雲にはのどかな象があるが、この句ではその「はやさ」が捉えられている。春の穏やかさの中に、時の流れの速さを見ているのだ。
そして下五の「少女老ゆ」に驚かされる。普通なら、春野と少女を結び、明るさや若さを詠みたくなるところだろう。しかしこの句は、そこに「老ゆ」を感受している。少女であった者もいつか老いてゆく。あるいは、老いた人の中にも少女の面影が消えずに残っている。その両方を含みながら、「少女老ゆ」という短い言葉の中に、「少女の面影を残したまま老いてゆく人間の時間」を凝縮している。
俳句を作るうえで大切なのは、目の前の景を写しながら、そこから何を感じ取るかである。この句の場合、春野を歩き、雲の速さを見ただけなら、誰にでもある体験だろう。しかし、その雲の流れに、人の一生の速さ、若さから老いへ向かう時間を感じ取ったところに、俳句の感性の豊かさがある。
しかも「人生は早い」「人は老いる」と説明していないところがよい。説明するのではなく、景と言葉に思いを託す。ただ「雲のはやさや」と切り、「少女老ゆ」と言い止める。その省略によって、読者の中にさまざまな記憶が呼び起こされる。かつて少女であった母、友人、自分自身、あるいは目の前の少女の未来までが重なって見えてくる。長く生きてきた時間と、なお失われない少女の心とが、春野の空の下で一つになる。老いを暗く嘆くのではなく、春の光の中に、人の一生の切なさと美しさを見ている。そこに、この句の深い余韻がある。
(選評:永瀬 十悟)
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